ヴィヴァルディの1枚の楽譜を探して欲しい。
最初はそんな小さな相談から始まり、いつしかすでに亡きヴィヴァルディの周囲の人たちとの交流に繋がっていきます。
18世紀ヴェネツィアで、強く美しく生きる女性たち。
生きているということは、つらいこともあるけれど、喜びもある。
優しい光が溢れるような美しさに、思わず息をのみます。
静かで、強く、優しい物語。
たしかに、生きることの喜びはここに存在するようです。
ヴィヴァルディの1枚の楽譜を探して欲しい。
最初はそんな小さな相談から始まり、いつしかすでに亡きヴィヴァルディの周囲の人たちとの交流に繋がっていきます。
18世紀ヴェネツィアで、強く美しく生きる女性たち。
生きているということは、つらいこともあるけれど、喜びもある。
優しい光が溢れるような美しさに、思わず息をのみます。
静かで、強く、優しい物語。
たしかに、生きることの喜びはここに存在するようです。
どんなにあたたかいものでも、手を離せばぬくもりは消える。
好きだから付き合うのに、結婚すれば愛とかどうとか消えてしまって、情にすり変わる。
でも、主人公とかつての恋人の間にあったのは、たしかに愛だった。
愛情というのは一瞬の重なりで、やがてそれはすれ違ってしまうのが現実。
だけど、すれ違った愛情をこれからも大切にできるか。あの一瞬間だけのきらめきを信じていけるか。
大切なものを気づかせてくれた彼女は、今…。
酒とカタツムリの渦巻きへのいざないと幽閉。
突然、誘い込まれる Daydream.
克明でいて、しかも他人行儀な Accent が心の奥底に滲み出し
Paris の街頭へ、溶解する。
Utrillo の静謐、開高健の躍動が、その書を開くものの血潮になる時、二つの齟齬がGapの中に、魔術を生み出す。
Misanthropy だけが静謐を、ガタガタと揺り動かし Trip しようとしている。それは心の浮遊、身体からの離脱……。
そして魔術は DrapesCurtain の向こう、暗闇の世界で、一つの奇跡として、具現化する。
古めかしい、錆びついた燭台の蝋燭に、不意に、小さな炎が、ひとりでに、点火し、密かに、ゆらゆらと、ゆらめきはじまったのだ。
旅、それは出口ではなく、入口なのだろうか。
リアルな自分を見つめる、生々しい時間の体感と、たった今の自分しか表現できない、『その時』そのものの自分を、スーツケースに詰め、抜け出せる場所を追い求めながら、生きる思想を刻み込みたい。
それが、旅に出たいと思わせる、衝動の起源なのかもしれない。
「何かを取り、何かをあとに置いていくこと」それは村上春樹さんの前に立ちはだかる二つの扉、出口と入口であり、『少年』から『大人』へ押し間違えたエレベーターの階数のように、もう、後戻りできない、という過渡的な流れを、封じ込めるような作業なのかもしれない。
遠くから、呼び寄せられる太鼓からの宿命の音に導かれ、作家という、留める旅をし続ける、村上春樹さんの姿は、そこにいるか。
エスキモーの写真1枚から、アラスカへ。
氷に包まれた夢が溶け出して、一つの物語が導いた、たった一つの生き方。
宇宙の神秘に魅了され続け、動物たちの自然のままの姿を、写真に、ことばに納め続ける、星野道夫という人間。
ブルーベリー一粒から、カリブー。
いつも緊張した関係にいる、クマたち。
その荘厳さを、より克明に、ダイナミックに伝えたい。
切実な想いが、どこまでも春を待ち焦がれる、アラスカの人々の心と繋がっているようだ。
はるか遠い極寒の地に訪れる春という風景は星野さんの愛しい瞬間の、一枚一枚。
そしてその春は、次の春へと、受け継がれる、種子。
心を突き動かす直感と感動は、二つとない己の人生と世界の選択と決断。
繋がれていく夢を馳せ、果たすことが出来るだろうか、はるかなはるへ。
津島修治を殺したのは誰だ。
仮面、道化が生み出した、愛の神、死の神、そして虚無。読むたびに幻聴が聞こえる。
津島秀治を殺したのは、誰だ。
光と影、そのアントニムに翻弄された作家太宰治は郷土、民族として裸体の津島秀治を原点として追求し続け、自らの文学作品に鏤めていたのではないか。
その書を開けば、仮面の中の何百もの太宰が、頭の中の何千もの太宰が、舞台としての人生を演じきっている。
そして、読みつつ想像するのだった。
舞台裏に詰めかけ、そっと手を伸ばし、肩を叩き、新人刑事のように、こう口走る場面を。
「殺ったのは君だね、作家・太宰治君。」
パレットの上、絵の具の塊は、永遠に溶けきれない遺跡、蟠りと隔たりの象徴。
この、それぞれの主張と強調のために、混じり合いきれず、ひび割れたその色は、ぎこちない。
それでも水滴を落とし続け、なお、混じろうと、薄い、薄い混合を保とうとするのは、隔たり合っていること、そのものの共鳴、共感、共存なのですね、先生。
まだ『大人』が襲名しないうち、先生の声に耳を欹て、育つこと、決めました。
今は、奇妙なこの空の色が、先生が御存命の頃と、ただただ、どこまでも繋がっているような気がします。
わざとらしい振る舞いと、空々しいゼスチャアの失敗に、先生が微笑み浮かべること、願っております。
愛の女、津島美知子が『太宰治』を家族の風景として克明に描写する姿は、まるで『太宰治』という人間が、まるで天使の申し子のように、映り込んでいるようだった。
一方で、鏡越しの夫を見つめ続ける強い意志を持つ妻の姿は、裏悲しく、ガラスの破片が鋭く突き刺さる痛みを伴う。
「ただ、一さいは過ぎて行きます。」
そんな夫を愛した事の不覚と存在の不明瞭。
葛藤と、せきあげてくる、情。
真という意味と、魂を必死で捜索し、小説という舞台の上から、常に降りる事の出来ない男を、その目に焼き付ける女の姿。
『太宰治』その人間がたったひとりの、愛しきひとだったという証明。
熱情と生命の源の滝が、荘厳と眼前に流れ落ちる。
人生は平凡で退屈だ。
薄暗いプラットフォーム、雪曇りの重たい空、汽車から吐き出される黒煙。
色彩はない。夕刊の文字列に意味なんかないこうやってつまらない人生を、つまらないまま消化していく。
凝り固まった憂鬱は簡単に解けない。
でも。あの蜜柑は暖かな太陽の色。一瞬間だけ差し込んだ光。
そういう、少しだけ心動かされる瞬間を重ねて生きているのではないだろうか。
中島敦が、33年の人生で、生前に出版できたのは数冊のみ。
彼は文字通り、小説を書くことに 命を燃やした 作家でした。
詩をつくるという「創作」に懸命だったところは、敦と李徴が似通っています。
李徴を虎にしたのは、臆病な自尊心と尊大な羞恥心。
けれど、現実の世界で、人は虎になれません。そして、中島敦は作家として広く評価される前に人生を終えます。
虎の咆哮と敦の悲嘆。重なって聞こえるのは気のせいでしょうか。